lilycoco9のブログ

28歳でエンジニアに転身した元OLのブログ

未経験からエンジニアとして働いてみて1年経った今思うこと

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自己紹介


今年30の年を迎えました。株式会社Giveryでフロントエンド エンジニアとして働いています。
元々は新卒で大手クレジットカード会社でOL(いわゆる一般職)をしていましたが、一念発起してフィリピン、オーストラリアへ語学留学、ワーホリを経験。その後帰国しプログラミングスクールに通った後、今の会社にフロントエンド エンジニアとして就職しました。
今の会社に務めてちょうど一年が経ったので、これまでの経緯を振り返っていきたいと思います。


OL時代


学生の頃は理系の学科が得意だったものの特にその分野でやりたい事もなく、大学はなんとなく潰しが効きそうな文系の学部に進みました。そんな状態で勉強に身が入るはずもなく、就活の時期になっても特にやりたい事が見つからなかった私は、ありとあらゆる業界の事務職を受けました。当時の私が就活の軸にしていたのは次の3つでした。

  1. 安定している
  2. 転勤が無い
  3. 大手の会社

何社かの面接後、条件にぴったりの大手クレジットカード会社に内定をいただき、就職することにしました。
その会社では4年弱働きましたが、私の職種では珍しく約1年ごとに部署移動があり、色々な経験をさせてもらいました。


1年目は顧客からの問合せ対応をするカスタマーセンターのエスカレーション先の部署に配属されました。
間違いなく人生で一番電話をした時期だったと思います。年次が低い人が率先して電話に出ると言う暗黙のルールがあったため、一日中ひっきりなしにかかってくる社内外からの問合せの電話に必ず1コールが鳴り止まないうちに出るようにしていました。

問合せの内容も細かい調査が必要なものが多く、数年分の履歴を手作業で調べたり、何千人いる社員の中から担当者を特定して問合せたり、時にはカスタマーセンターで対応しきれなくなった顧客から直接電話を受けて数時間話を聞き続けたこともありました。
初めのうちはとにかく覚える事が多く、また臨機応変な対応力も求められたため大変ではありましたが、日に日に知識や経験が増えていくのが楽しく、3ヶ月経った頃にはすっかり業務にも慣れました。


ちょうど1年経った頃、別の部署に配属されました。カードの使用で溜まったポイントを色々な商品に交換出来るのですが、その商品管理と商品を掲載するカタログの発行管理をするのが主な業務でした。
この頃は上司からひどいパワハラを受けていて、今思えばとても理不尽なことをされていたと思えるのですが、当時は仕事が出来ないから仕方ないとひたすら自分を責め、誰にも相談出来ませんでした。誰よりも早く会社に行って遅くまで残業したり、必死でExcelの関数やショートカットを覚えて、どうすればより正確に早く仕事が出来るかを模索していました。今のパソコンスキルはこの時の経験が土台になっているかもしれません。


3年目は晴れてパワハラ上司と別部署に異動出来たのですが、単純作業が多く仕事自体にあまりやりがいを感じていませんでした。
そんな時、人生を変える出来事がありました。
交通事故にあったのです。


自分の不注意が原因ではあったものの、前歯三本を失い、顔を20針ほど縫う大怪我でした。(その後約3ヶ月間、食事以外の時間はマスクで怪我を隠して過ごしました。今のようなマスクが当たり前の時代がくるとは思ってもいませんでした。)
一生マスクで過ごさなくてはいけないかもしれないにも関わらず、その時の私は自分でも不思議なくらいポジティブで、手術が終わった後、看護師さんにこう呟いていました。「これが何かの良いきっかけになったら良いな。」


そしてその日からなんとなく自分の中に

「人生いつ何が起こるか分からない。本当にやりたいことをしよう。」

と言う思いが芽生えていました。

怪我が少し落ち着いた頃には前々から決心をしかねていた語学留学を申し込み、会社を辞めていました。

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最終日に頂いた花束



語学留学、ワーホリ時代


当時英語は全くと言って良いほど話せず、TOEICは驚異の200点台でした。(参考までに、近年TOEIC の全体での平均点は600点弱と言われる中、200点台は英語初級者、つまり中学1年生以下のレベルです。)
そんな私はまずフィリピンに2ヶ月の語学留学を決めました。
フィリピンは物価が安く、マンツーマン授業が安く受けられるからです。結果、大正解でした。私の通っていた学校では一日に8コマ授業があり、そのうちマンツーマン授業は4つ、少人数授業と大人数授業は2つずつ、1日中みっちり英語の授業を受けた後、予習、復習、宿題、などを行い、英語漬けの日々が送れます。

リスニングや発音、ライティングなど自分が苦手なクラスを選択する事が出来、定期テストで自分のレベルが上がるほど上位のクラスを受講出来ます。また、先生が合わない場合にも変更が可能なので、(多少心は痛みますが)お喋りばかりであまり真剣に教えてくれない先生などは次の週から変更していました。


フィリピンでの生活は平日は早朝から深夜まで勉強、休日は近くの島へ小旅行を楽しんだりととても充実したものでしたが、この時期にも少し辛い出来事がありました。

フィリピンでは同じ日に入学した人同士をバッチメイトと言って、授業や放課後など多くの時間を共に過ごすのですが、一部のバッチメイトで派閥のようなものがあり、何度か理不尽な扱いを受けた事がありました。
最初のうちはなぜそんなことをされなくてはいけないのか訳がわからず、悲しみ悩んでいましたが、だんだんと悔しさに変わり、その悔しさを全て勉強にぶつけました。

初日に受けたクラス分けテストでは最下位のクラスでしたが、そのバッチメイトを見返すため朝も夜も必死で勉強したところ、定期テストで何度か上位3位以内に入るほど成績が伸び、卒業する頃には中上級者のクラスまで上がる事ができました。


卒業後はワーキングホリデービザでフィリピンから直接オーストラリアのメルボルンに飛び、半年間語学学校に通いました。
フィリピンでは生徒の国籍は日本人、韓国人が大半で、台湾人、ロシア人が数人と言ったところでしたが、オーストラリアにはヨーロッパや東南アジア、南米など様々な国籍の人がいました。

オーストラリアの語学学校の先生は皆個性的で、面白い方が多かったのですが、特に印象に残っているのはダニエルと言う先生でした。彼は教科書に沿った授業だけでなく、毎回その日に話すトピックを決めて全員でディスカッションをさせました。

そのトピックは、菜食主義者についてや、自身が経験したガンの話、ドラッグや、上手なシェアメイトの探し方、様々な性についてなど、日本の学校では中々取り上げない内容のものばかりでした。色々な国の色々なバックグラウンドを持ったクラスメイトとそれについて議論するのはとても刺激的で、世界のほんの小さな一部分しか見えていなかった私の視野を大きく広げてくれました。

 

そんな彼が言っていた英語を習得するために最も大切なこと、それは

「とにかく母国語に触れないこと」

でした。

私の通っていた学校は「English Only」 と言うポリシーがあり、たとえ同じ日本人同士であっても学校の中では英語で話さなくてはいけませんでしたが、私はダニエルの教え通り、学校外でも日本人グループでの交流は出来るだけ避け、シェアハウスもあえて外国人だけがいる家を選びました。またスマホやパソコンの設定も英語に変え、必然的に英語しか目に入らないようにしました。
学校での勉強以外では、定期的に教会で行われる無料の英語クラスに参加したり、毎週色々なバーやレストランで開催されるmeet upと言う語学交流会に出かけて現地の人との英会話に励んでいました。オーストラリアはとても移民が多いので、meet upに行くことで色々な国のアクセントが聞き取れるようになったり、色んな文化を知れたりと毎回とても楽しかったです。
このmeet upで何人かのインド人の方と話す機会があったのですが、必ずと言って良いほど職業がエンジニアで、仕事のためにオーストラリアに住んでいると言っていました。今思えばエンジニアと言う職業を初めて意識したのはこの頃だったかもしれません。とても安直ですが、エンジニアになれば海外に住めるのかと思ったのを覚えています。


オーストラリアの語学学校を卒業した後はショッピングモールでの勧誘の仕事に挑戦しました。勧誘と言っても怪しいものではなく、目の見えない子供達への募金のサブスクリプション契約を募ると言うものでしたが、一日中ショッピングモールでブースを構え、道ゆく人に声をかけて英語で勧誘するのは想像以上に難しく、自分の英語力と営業力の無さに落胆して1週間で辞めてしまいました。。

その後、セカンドビザ取得の条件を満たすためファームで半年間働きました。その間同じ場所にいた訳ではなく、収穫のシーズンに合わせてバナナ、ブルーベリー、ラズベリー、イチゴ、野菜、などタスマニアからブリスベンの郊外まで色々なファームで働きました。半年間で7〜8回は引っ越しをしたと思います。
もちろん現地に知り合いはいないので、最初はダメもとでバナナファームの地域へ行き、ジャンピングと言って早朝ファームへ従業員を乗せるバスが集まる場所でバスの運転手に連絡先の書いたメモを渡して仕事をくれと叫ぶ、のようなこともしました。
一時期、住む場所も仕事も無くなりかけたことや、シェアメイトが暴れて警察沙汰になったこと、大量の虫に刺されて痒みで夜も眠れなかったこと、大雨の日に何時間も寒さに凍えながら収穫したことなどもありましたが、毎日がとても刺激的で生きていると言う実感が持てました。


そんなファーム生活ですが、朝4時に起きて夕方までずっとピッキング作業をします。
はじめのうちはファームの仲間と話したりもするのですが、後半になってくると一人で黙々と作業することが多く、どうしても単純作業に飽きてしまいます。そんな時はPodcastをひたすら聞くことで退屈を凌ぐプラス語学の学習もしていました。この時良く聞いていたのが「バイリンガルニュース」と言う番組です。世界の面白いニュースについて英語と日本語で話をするのですが、テクノロジー系の話が特に面白く、世界のIT企業の偉業や、新しく開発された新技術の話を聞くたびに「エンジニアってかっこいい」と思っていました。

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ストロベリーファームでの一枚


プログラミングスクール時代


海外での生活が想像以上に楽しかったため、帰国後はまたすぐ海外に行くつもりでした。ただ、今度はアルバイトのような形ではなくきちんとした職に付きたかったため、まず何かのスキルをつけることにしました。
そこで、候補に上げたのが「マーケティング」と「エンジニア」でした。
どちらも未経験からのスタートなので海外で大学やスクールに通って学ぶことも考えましたが、数年間の学費と生活費を計算したところ到底払えるような金額ではありませんでした。であれば日本で学んでから海外で働こうと思い、まずは日本で学校に通うことを決めました。(途中からマーケティングの選択肢は消えていたのですが、なぜだったかは思い出せません)
私が通ったのはG's Academyと言う学校です。どうしてそこに決めたかと言うと、多くの学校はオンラインで授業や質問をする形式ですが、その学校は前半は対面での授業、後期は現役のエンジニアがメンターになってチーム開発が出来ると言うカリキュラムになっており、面白そうだと思ったからです。また門を広く開けている学校が多い中、入学試験があったのも好印象でした。
コースはフルタイムで授業を受ける平日コースと週末だけの週末コースがあり、私は働きながら学びたかったので週末コースにしました。なぜ働きながら学校に通ったかと言うと、お金の問題ももちろんですが英語を使って企業で働くと言う経験がしたかったからです。
プログラミング学校を卒業したら辞めてエンジニアになるつもりでいたので、派遣で外資のPR会社に務めることにしました。
ほぼ同時期に学校入学と派遣会社への就職をして、ほぼ一日中新しいことを学んでいると言う感覚でした。


就職した会社は米のPR会社の日本支店で、私が配属されたチームは大手IT企業がクライアントでした。(後に、面接でエンジニアを目指していると話したため採用頂いたと聞きました。)クライアントの海外本社に送るレポートの作成や翻訳、記者説明会の会場手配、記者へのピッチ、SNSの運用などが主な仕事で、誰もが聞いた事がある大手企業の重大ニュースを世に出る前に知る事が出来るのはとても面白かったですし、色々なIT企業の内側が見れたり英語を仕事で使えたのはとても良い経験でした。


学校は全半年のコースで、前半3ヶ月は毎週土曜に授業があり、その日出た課題を次の土曜までに仕上げます。また後半3ヶ月はメンターを一人選び、チームで卒業制作を作ります。

週末コースと言っても、未経験の私には週末だけの勉強ではとてもついて行けず、学校が休みの月曜以外はほぼ毎日仕事終わりに学校の自習室に行き、手の空いている講師を質問攻めにしていました。あの頃お世話になった先生方には本当に感謝しています。
私がラッキーだったのは、初めの頃からコードを書く事を楽しめたことです。楽しくなければ寝る間も惜しんでまでコードを書けなかったと思います。毎週宿題で出来の良かった人が数人前に呼ばれ、発表するのが恒例なのですが、呼ばれる回数も徐々に増えていきました。


後半は、その頃一番スパルタと言われていた方をメンターに選んでチーム開発をしました。
どのくらいスパルタかと言うと、平日は毎朝会社に行く前に朝6時頃からメンターの住んでいたシェアハウスで朝活をし、毎週金曜日は夜の22時から翌朝10時まで12時間の徹夜開発をしていました。約3ヶ月間それを続けましたが、それが苦では無いほどチームで開発する時間が楽しく、プログラミングにのめり込んでいました。
卒業制作は卒業前に外部から人を集めて発表会をするのですが、採点方法は外部の観覧者が技術点、サービス点を評価し、その総合点で結果が決まります。

Vue, Node.jsなどを使ってオンラインでチーム対戦出来るゲームを作り、結果は技術点1位、総合4位でした。それまで感じたことのなかったような達成感があったのを覚えています。

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プログラミングスクールの授業中の様子


スタートアップ時代


当初の予定通り学校を卒業してすぐに仕事は辞めました。そのタイミングでプログラミング学校の同期に一緒にアプリを開発して起業しようと誘ってもらい、アプリのアイデアも面白かったのでジョインすることにしました。
ビジネス側とエンジニア、デザイナー合わせて計8人で、一人を除いて全員学校の同期で作ったチームでした。
私以外のメンバーは働きながら、私だけがフルタイムの状態で、もちろん収入はありませんでしたがチーム開発が楽しく、私がエンジニアチームをリードする形でバックエンドの設計からフロントエンド まで幅広く開発しました。
ただ5ヶ月を過ぎる頃まで方針が定まらず、リリース出来ない状態が続き、限界を感じていました。その間アルバイトで繋ぎながらなんとか続けていましたが、チームを率いていたリーダーとの意向の違いもありチームは抜けてしまいました。


ちなみにその時にしていたアルバイトですが、六本木にあるハッカーズバーでバーテンダーをしていました。お客さんはエンジニアの方や、エンジニアを目指している方、全く関係の無い職業の方、起業の相談に来る方など様々でしたが、色々な方とプログラミングのお話をしたりハッカーの行うライブコーディングを間近で見る事が出来てとても面白い経験でした。
また、この頃に良く技術系のイベントや勉強会に参加していたのですが、最新技術のキャッチアップも出来ましたし、現場のエンジニアが多く集まる場所にいることで実際に働くイメージが付いたので、就職してからのギャップもあまり無かったように思います。

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起業に向けて開発していた頃


エンジニアとして初めての就職


エンジニアとしての初めての就活は簡単では無く、いくつか内定はいただいたものの本当に行きたい会社には中々出会えませんでした。
その頃私が就活の軸にしていたのは、次の4つでした。

  1. 英語環境
  2. モダンな技術を使っている
  3. サービスに共感出来る
  4. 学べる環境がある

英語環境で思いつくのが外資系企業か、外国人エンジニアを多く採用している大手ですが、就活を通してわかったことは、そもそもそのような会社では「中途でほぼ未経験のエンジニア」をほとんど採用していません。また大手ではサービスが巨大化していて技術がレガシーな事が多く、受託系の会社だと、開発サイクルが早いので新しい技術は取り入れやすいですが、サービスに共感はしづらく、1〜2人で開発するためレビュー文化もあまり無いと言うのが現状でした。
実はGiveryにオファーをいただいた時も即答は出来ずに1ヶ月ほど時間をいただきました。今思うと上記の条件にぴったりではあるのですが、優柔不断の私は決めきれずにいました。

そんな時、Giveryの担当者の方から実際に働いてみたら働くイメージが付くだろうからと1ヶ月のインターンシップの提案をいただき、インターンシップ1週間目で入社を決めました。回答を待っていただいた担当者の方には本当に感謝しています。


さて、重視していたポイントのGiveryに入社後のギャップですが、「英語環境」については、想像以上に英語環境でした。エンジニアの半数かそれ以上が外国籍の方で、今では毎日朝と夕方の報告会も英語で行っています。テキストも英語でやりとりする事が多く、言語学習にもとても良い環境だと思います。何より英語でやりとりをすると日本語よりもカジュアルにやりとり出来るので私はとても好きです。
次に、「モダンな技術を使っている」ですが、フロントエンド は主にReact, TypeScriptを使っており、バージョンも比較的新しいものを使っています。特に最近では新規プロジェクトに参画する機会をいただき、ライブラリー選定段階から携わる事が出来てとても楽しいです。
「サービスに共感出来る」は、エンジニアにとってこれほど共感出来るサービスは無いのではと思うほどです。エンジニアの学習や、就活、採用の手助けが出来るので、とてもやりがいのある仕事だと感じています。
最後に、「学べる環境がある」ですが、これもとてもあります。まず自分の出したPRに対してシニアエンジニアの方が丁寧にレビューしてくれる環境はとても貴重だと思っています。一つのPRでも自分では気づかなかった観点で色々とコメントをもらえるので日々学びがあり、自身がPRをレビューする上でもそれまで知らなかったテクニックやクリーンなコードの書き方などを学べるのでとても勉強になります。
入社当社は小さなBugの修正ばかりしていましたが、最近は徐々に大きなFeatureも任せてもらえるようになったり、デザインや設計についても自分の意見を取り入れてもらえたりと日々成長を実感しています。スクラム開発でチケットを消化していくのはゲームのようで楽しく、こんなに楽しくてお金がもらえるなら本当にジョブチェンジして良かったと思いました。


今後について


海外で働くと言う夢を叶えるのはもう少し先になりそうですが、まだ諦めた訳ではありません。それまでにさらにレベルアップを目指しています。

最近はScalaの学習を始めて業務で使うための準備をしています。2021年はフロントエンド をさらにスキルアップしつつバックエンドのスキルをつけて、フルスタックエンジニアになる事が目標です。


まとめ

 

今こうして振り返ってみて、色々ありましたが全てが繋がっていると実感しています。

OL時代は、単純作業の雑用を任されたり、何時間も意味のない会議に参加したり、女性だからと言う理由でお茶汲みに行ったり、飲み会で上司の隣に座らされてお酒を注いだり、同僚と社内の噂話や給料や仕事の愚痴を言い合うのに日々やるせなさを感じていました。当時はそれが社会人の使命だと思っていましたが、今はそれが自ら選んだ環境だったと言うことがわかります。他人の目を気にして、同じ会社で長く働く事が正だからとか、何歳までに結婚しなくてはとか、安定が一番大事だと思っていました。実際にそんな風に言われたこともありましたが、自分の意思ではなかったことに気付けました。

やりたいことをしようと思って選んだ環境はとても居心地が良く、刺激的でした。海外やプログラミングスクール、仕事で出会った人や経験は私の宝物です。

とても優柔不断でこれからも迷うことが多いと思いますが、やってみなければわからないし、やるからにはその選択が間違っていなかったと思えるような行動をしていきたいなと思います。

 
そして今思うことは、エンジニアになって本当に良かったということです。
完全リモートでオフィスにいるのと変わらない働き方が出来ますし、このコロナ禍でも以前とほぼ変わらず仕事が出来ています。通勤が無いのは正直とても楽です。
あと、プログラミングは楽しいです。時には数時間同じ箇所で悩んで不甲斐なく感じることもありますが、テストが通った時や素晴らしいロジックを思いついた時、素敵はUIが完成した時は嬉しくて思わず笑ってしまうほどです。
学ぶことは多いですが、その分自分の成長を感じられます。飽きません。
エンジニアになる前は一人で黙々とパソコンとにらめっこするイメージでしたが、実際は想像以上に人とのやりとりが多いです。業務でのちょっとしたやりとりが楽しかったりもします。また、オープンソースへのコミットなどでは世界中の人と繋がって考えを共有することも出来ます。仕事が好きな人が多いので、仕事の愚痴を言う人が少ないのも良いところです。趣味で休みの日にコードを書いている人も多いです。
エンジニアになってさらに実感したことで言えば、女性がものすごく少ないということ。弊社でも女性のエンジニアは私と、他にUXデザイナーの2人だけです。女性がエンジニアになるメリットとして、無理な立ち仕事など一切ないですし、子育て中でも自宅で作業出来ます。エンジニアに女性が少ない事が不思議なくらい女性にとっても良い職業だと思います。

他にも色々ありますが、もしエンジニアに興味があればぜひ一度トライしてみることをお勧めします。